その男は誰だ?
久米山コージのペルソナは曖昧模糊としている。お前は誰だという詰問に似た問いかけは、もしかしたら久米山自身の声なのかもしれない。唯一の手がかりたる久米山コージという名前さえ、最低限の社会的存在を得るための単なる記号のようにさえ思える。
久米山コージというパーソナルをつまびらかにするのは、ここに展示されている彼の目を通した写真しかない。各200枚だった前回、前々回の展示総数の倍になる800枚の写真だけが、我々が久米山コージという人物を想像する唯一のヒントとなる。
これら800枚は写真家を通した視点ではない。久米山コージがこの三年間で目撃した記録なのだ。一人称視点で語られる、久米山自身は一枚も写ってはいない画像から、我々は彼という人間を想像するしかない。
示唆されるの情報は多岐にわたるようで限定的でもある。800枚を一気に見て分かるのは「たぶんオッサンなんだろうな」ということだけだ。思慮深さも稚拙さも(かなり稚拙寄り)渾然一体となった写真群から得られる情報は「オッサンだろう」という類推だけ。趣味趣向の類いは垣間見えても、信条やイデオロギー、家族や職業など日常生活といった、本質的なものは何も写ってはいない。
久米山コージとは何者なのか?写真をすべて見たあと、観覧者は結局はその疑問に立ち戻ることになる。だがそれは冷静に考えれば何も不思議なことではない。
あなたはあなたの近しい人をすべて知っているのか。いや他人ではなく、あなたはあなた自身を知っているのか?もちろん自分自身のことは分かっているだろう。では自分自身のすべてを、他人に開示しているのか?
誰しもが矛盾や二律背反を抱えて生きている。他人に明かせない秘密が一つもない人間など皆無だ。そういった混沌すべてをひっくるめて、己自身を分かっているつもり、理解しているつもりなのではないか?
あなたは、いや我々は、分かっている筈の自分自身を理路整然と他者に説明できるだろうか?寸分の齟齬もなく自分自身を他人と共有できるだろうか?
答えは否だ。
なぜなら我々は、本質的な意味では、自分自身さえも理解してはいないのだから。
久米山コージという人間は「誰でもない誰か」だ。それは「誰でもある誰か」と言い換えることもできる。久米山コージは実在しない。同時に久米山コージは実在するのだ。
ようやく「その男は誰だ?」という問いの答えが、朧気に見えてくる。そう、久米山コージは視点を貸した写真家たちであり、同時にこれを見たあなた自身でもあるのだ。
そんなオチを突きつけられて、「ちょっと待ってくれ、俺はこんな下品な写真は撮らない!」とか「私はオッサンではない!」とまずは反論したいことだろう。それは当然だ。だが写った写真の本質を見てほしい。たとえば牛丼を撮った一枚がある。なぜ久米山は牛丼を撮ったのか。気まぐれなのか、何かしら心情を吐露して心象風景なのか?その本質を想像した時、自分は常日頃もっと良いものを食べている!と感じるあなたにも、訴えかけるもの、共通認識できる「心を動かす何か」が発見できないだろうか?
そう、ここにある800枚すべての写真は、久米山が見た景色ではあるけれど、一枚残らずあなたの見た景色に代替できるのだ。自分だったら牛丼のかわりに何を撮ったのだろうか?自分が食べ物を撮るとしたら、どんな状況なのだろうか?そういうことを想像して、もう一度この800枚を眺めてほしい。
そうした時、久米山コージとは自分だったのかもしれないという疑いが、生まれてはこないだろうか?
四人展「久米山コージ 新たなる旅立ち The X five」
2022.11.2〜11.6
水曜日~土曜日 14:00~閉館20:00 ※入場19:30まで
日曜日 12:00~閉館18:00 ※入場17:30まで
ギャラリー・オマージュ
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